ギィィィ…
軋んだ音を立ててジムの扉が開いた。
こんな早い時間に自分以外の誰が来たというのだろうか。
不思議に思った真田がサンドバッグを殴ろうとしていた手を止めて、ジムの玄関のほうを見やる。
「おはようございます~…って、ちょっと早すぎちゃったかなぁ?」
でも、ドア開いてたから勝手に入ってきちゃったんだけど。
そう言いながらジムの中に入ってきたのは、髪を鮮やかな赤色に染め、モスグリーンのツーピースに身を包んだ妙齢の女性だった。
「…あ、良かった。ちゃんと人がいる」
きょろきょろとジムの中を見渡していた女性は、サンドバッグの前で手を止めたままだった真田の姿を見つけると嬉しそうに破顔して真田の方へと近寄ってくる。
「すみません、勝手に入ってきちゃって」
気安い様子で話しかけてくる女性をじっと真田が見つめる。
「あの、ここのオーナーってまだ来てません?」
「残念ながらまだ来ていないが…」
「…あ~…やぱり…」
一応、今日午前中にジムの方に寄るからって連絡は入れてあったんだけど…あの人、ジムのオーナーなんてやってるくせに朝が弱いものね。
そう言って女性が真っ赤な前髪を指先で玩ぶようにしながら苦笑を浮かべる。
「オーナーに、何か用でも?」
一応、オーナーの客ならそれなりに対応しておくべきだろうと真田が女性に尋ねる。
「用といえば用なんだけど」
仕事の関係でこっちにきたから、ちょっと顔を見に来たのよ。
ずっとご無沙汰してたから。
そう言って女性が笑う。
「…そうか」
「あの…練習の邪魔しないから、オーナーが来るまでここで待たせてもらっても良い?ここに来る前にちょっと見て回ってきたんだけど…ここの周り、時間が潰せそうなお店が全然ないんだもの」
「まあ…確かにそうだな」
もともとこのジムの周辺には喫茶店の類など少ないし、その上、この早い時間ではまだ開いている店などほとんどないといって等しい。
それを思い出して、真田がふむと小さく声を漏らす。
「だが、ここにいるのは…退屈なんじゃないか?」
どう見てもただのボクシングジムだ。あるものといえば、リングに、サンドバッグ…とトレーニングに必要な用具ばかりで女性が見て面白いものなどないだろう。
そう真田が問うと、女性がふるふると頭を振る。
「そうでもないわよ?」
「…そうか?」
「まあ、確かに普通の女の子だったら、ちょっと退屈かもしれないけど。私も昔やってた事があるから」
そう言って、女性が素早くファイティングポーズを取る。
堂に入ったその姿に、その話が嘘や騙り等ではなく本当の事だと真田が瞬時に理解する。
「懐かしいわ…」
ジムに通ってた時期自体はそれほど長くなかったんだけど、ボクシングやってて良かったと思ってるわと、しみじみと女性が告げる。
「何なら、軽くスパーでもやってみないか?もちろん相手はこの俺なんだが…」
ただ待っているだけというのはやはりつまらないだろう?
そう言って真田がにやりと笑ってみせる。
「え…でも、悪いわよぅ」
「そんなことはない。俺もちょうど退屈していたところだ」
「だって、今、トレーニングの最中でしょう?ちゃんとしたメニュー通りにやらなくて大丈夫なの?」
一応、ジムに所属しているのだったら提供された練習メニュー通りにトレーニングをしておかないと、後でいろいろとうるさいのではないかと女性が心配そうに言う。
「何、これぐらい大した事ないさ」
「まあ、あなたがそう言うなら良いけど…その代わりオーナーに絞られることになっても、私は責任取らないわよ?」
そう言って、悪戯っぽい笑みを女が浮かべる。
「…ああ、別に構わんさ」
多少練習メニューが増えるぐらい大したことではないと、真田が不敵な笑みを浮かべてみせる。
「…聞きしに勝るトレーニングマニアっぷりだわ」
そんな真田の姿を見た女がやれやれといった様子で肩をすくめながら呟く。
「じゃあ、お言葉に甘えて…ちょっとだけ打たせてもらうわね」
「ああ」
「あ、でも流石にこの格好じゃぁ…」
「ウェアもシューズもビジター用のものがあるから、それを使うといい」
そう言って、真田がジムの端にある更衣室を指差す。
「ありがとう」
そういうと女は真田に言われた通り、更衣室に向かうのだった。
「…ホント、話に聞いたとおりっていうか…話以上のトレーニングマニアよねぇ」
更衣室でビジター用のウェアに着替えながら女がやれやれといった具合で呟く。
普通、女相手にスパーリングしていけなんていうか?
…って、もしかして私が女に見えなかったとか?ああ、それはないか。
彼が指し示した更衣室はちゃんと女性用のものだったのを思い出して、女は小さく息をつく。
「これじゃあ、オーナーが気に病むのも仕方ないか」
常人以上のペースで鍛え上げられた身体は、これ以上トレーニングを重ねる必要があるようにはあまり見えない。
それでも貪欲にトレーニングを重ね貪欲に強さを求め、周りの話をまるで取り合わない姿は、正直な話、恐ろしいものがある。
そんな彼を心配したオーナーがわざわざ旧知の自分に連絡を入れてきたのは、昨日の話。
ーーーまあでもそれは、あくまでも、常人の範疇での話なのだが。
オーナーからの話を聞いた時なんとなく引っ掛かりを覚えた。
そして、実際に会ってみてそれは確信に変わった。
あの頃よりも頻繁にーーーというか殆どーーー使わなくなった時間が長かったせいなのか、それとも何かほかに要因があるのかどうかーーーニャルの野郎を吹ぶっ倒して使い切ってしまったとか。それとも、能力をくれた金色蝶々を周防弟がぶっ飛ばしたからかーーーは知らないが、その能力は殆どなくなってしまったけれど、それでも完全に消え去ったわけではないおかげで相手がペルソナの力を持ているかどうかとか、悪魔がいるかどうかとか…といった些細なことなら今でも感じ取ることはできる。
真田明彦…彼から感じたのは、ペルソナの気配。
これだけ強烈な気配を漂わせているということは、多分、あの頃の自分たちと同じように何かと戦っているのだろう。
事実、この港区を中心として起きている「無気力症」というものはあの頃に見た「影人間」をどこか思い起こさせるものがある。
「…まあ、しょうがないのかしらねぇ?」
襲い来る人外の化け物と戦う立場に立たされたのなら誰だって苦しいトレーニングだって厭わないだろう。ーーーまあ、彼の場合、もともとトレーニング好きだったことも災いしているのだろうけれど。
「パオはほっとけって言ったけど…話を聞いちゃった以上、うららさんとしては放っておけないものねぇ」
とりあえず、オーナーの要望に沿うようにほんの少しだけ手を貸せば、後は例代わりに美味しいご飯をおごってもらえるという約束なのだ。
「なんか、今日はマーヤもこちに来てるって話だから、二人分、きっちり奢って貰うためにも、がんばらなきゃねv」
そう言って、ウェアに着替え、軽くストレッチなどをして身体を温めると女ーーー芹沢うららは、グローブを手に、真田の待っているジムの方へと向かうのだった。
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